新老楼快悔 第123話 消えては現れる橋って、何?

新老楼快悔 第123話 消えては現れる橋って、何?


 えっ、消えては現れる橋って、何? まるで魔法のような橋が昭和三〇年(一九五五)ごろまで存在したという。いまでは想像もできない話だが、地球の温度が少しずつ上がっている現状と結び付けて考えると、素直に喜べないことなのかもしれない。
 石狩平野を横断して流れる石狩川は、その頃、毎年冬になると決まって凍結し、氷で覆われた。明治一五年(一八八二)、石狩川河口から八キロほど遡ったあたりに入植した福移藩士ら四〇人は、上、中、下の三集落にわかれて開墾の鍬を振り下ろした。以来、厳しい気象と闘いながら新しい郷土の建設に励んだ。
 石狩川沿岸は肥沃な土地が多かったが、福井藩の入植地も含めて大部分は泥炭地で開拓が思うように進まなかった。また石狩川は豊かな恵みをもたらしてくれたが、いったん暴れだすと手のつけようがなかった。
 夏場に隣町の当別へ行くには、下福移に設けられた渡し舟を用いるのだが、冬場になると吹雪と積雪でそれどころではない。せめて隣町とを結ぶ橋をつけたいというのは、ここに住む人々の共通の願いだった。
 ところが冬になり、川が凍りついて“氷橋”が出現すると、人々は喜び、それを渡って当別と自由に行き来した。開拓者たちの暮らしから生まれた“期間限定の橋”というわけだ。これにより地域同士の交流が深まり、嫁取りや婿取りなども行われた。福移と当別のきずなが深まったのは当然だろう。
 一方、福移から札幌への道は、篠路を回る泥炭地の経路だけで、雨が降ると馬は腹までぬかるみに沈むほど。自然に札幌への足は遠のいていったのはやむをえないことだったといえる。
 昭和一〇年(一九三五)の国鉄(現在のJR)札沼線が開通して、札幌―新琴似―篠路―石狩太美―石狩当別が繋がり、沿線に住む人々の暮らしは大きく変わっていった。福移集落の人々の足も、当然のように札幌へ向かうようになる。
 いま石狩川河口から札幌方面を眺めると、石狩河口橋、札幌大橋、新石狩大橋、石狩大橋と大きな橋が架けられており、改めて橋が地域を繋ぐ大事な存在であることに気づかされる。その反面、冬になると出現し、春になると消えていく氷橋の思い出は、高齢者の記憶に微かに残るだけで、いまは誰も知らない昔話になってしまったのは、残念といわざるをえない。


2024年1月19日


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