新老楼快悔 第118話 『無知の涙』の原点は故郷網走

新老楼快悔 第118話 『無知の涙』の原点は故郷網走


 師走が近づく一日、小樽文学館で「観て、聴いて、話し合おうIN戦後文学者永山則夫」(主催・『週刊金曜日』小樽読者会、沖山美喜子代表)が開かれるのを知り、訪れた。
 会場には永山の書いたノート「無知の涙」(小樽文学館蔵)や原稿などが並べられ、多数の人々が集まり、静かな熱気を漂わせていた。この中には永山の遺品を預かる市原みちえさん(東京都)や裁判を追いかけた放送記者、新聞記者らの姿も見られた。



 永山則夫――、昭和43年(1968)10月10日深夜、東京都内でホテルの警備員をピストルで射殺したのをはじめ、わずか一ヶ月足らずの間に京都、函館、名古屋で4件の射殺事件を引き起こし、世間を震え上がらせた。
 当時、私は釧路で事件記者をしていたので、殺人鬼がいつ現れるか、おののく思いで見えない敵と対峙した記憶がいまも残る。間もなく犯人は逮捕され、19歳10ヶ月の少年だったことが判明。にもかかわらず、マスコミは実名報道に踏み切る。
 永山はなぜ、こんな凶悪事件を重ねたのか。後に法廷でのやり取りや自身の供述、著作などで、極端に貧しく愛情のかけらもない家庭に育ち、ネグレクト、DV、いじめなどに晒され、無知なるがゆえに犯行に走った壮絶な実態が明らかになる。
 裁判は、死刑、無期懲役、また死刑、と生と死の狭間を行き来し、最終的に死刑が確定する。獄内で書いた手記『無知の涙』など多くの文学作品がベストセラーになり、日本人女性と獄中結婚するなど話題を集めた。平成9年(1997)8月1日、死刑執行。
 この日の会合では、最初に永山に関わる当時のテレビニュース、ビデオの上映があり、続いて死刑執行4日前に永山と面会した市原みちえさんが登場して、永山にまつわるエピソードを紹介した。また「永山則夫のアバシリ」、つまり生まれ故郷・網走が永山の人間形成の原点とされ、永山が最後まで網走にこだわったことが指摘された。
 配付された資料の中に永山自身が書いた「わたしの経歴」が含まれており、次の文面が肺腑をえぐった。

 「一審中二度死刑求刑され、『弁護人抜き裁判』適用第1号の上、『死刑判決』を欠席裁判で受ける。1981年8月、死刑から無期懲役に減刑。現在愛妻と共に検事上告の判決待ち。『資本論』のパロディ―たる“無罪論”を執筆中。小説も勉強中」

 生死をめぐる線上に立ちながら、文章を書き続けたエネルギーはどこにあったのか。しばし考えながら、処刑後のわが身(遺骨)を網走の海に撒いてほしいと願い、それを実行に移した妻(後に離婚)と弁護人のことに思いを馳せていた。




2023年12月22日


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