新老楼快悔 第95話 日々の暮らしの中で

新老楼快悔 第95話 日々の暮らしの中で


 札幌市内で、老いた夫が老いた妻を殺害するという悲しい事件が起こった。逮捕された夫は八九歳。その氏名「N」を新聞で見て、はっとなった。遠い日の小学校同級生と同姓同名ではないか。
 もしやと思い、30年ほど前に一度開いた時の、古い同級会名簿を引っ張りだしてみた。だがそこにはN君の名はなかった。小学校の同級生のことなど、もう遠い彼方に沈んでしまっていた。
 思い返せば私たちが育った空知の炭鉱町には小学校が二つあり、私たちは市街地の小学校に通っていた。N君とは入学した一年生からの知り合いだが、とくに仲がよかったわけでもない。太平洋戦争が起こり、戦火が激しくなる中で、学級の組み替えが二度あったのに、6年間、同じ組で過ごした。どこの家も貧しく、誰もが大きくなったら軍人になり、国のために尽くそうと真剣に話していた。
 戦争が終わったのは小学6年の夏休みの最中。二学期が始まり登校すると、先生から教科書の指定箇所に墨を塗るよう指示された。誰もが不思議な気持ちで、筆を取った。
 下校の時、誰かが私の背後から、小声でささやいた。
「級長、変だぞ。なあ、変だと思わないか」
 N君だった。いつも無口な少年が、自らの意見を述べたのに意外な感じを受けながら、自分も同じ感想を抱いていたので、思わず、
「変だ。おかしい」と答えた。
 高らかに唱えられていた軍国思想が急速に消え去り、自由主義と民主主義の風が子どもたちの間にまで吹きまくった。占領軍が入ってきて天地がひっくり返った。この国はもうだめだとさえ思った。年が明けて小学校の卒業式を迎えた。
 この日を機にN君の消息は途絶えた。家族ともどもどこかの町に移住したのであろう。その数年後に私自身も故郷を離れたので、N君のことなど忘れたままだった。それだけに突然、現れた同姓同名の人物の登場に、うろたえたというのが本音なのだろう。
 N君はあれから80年、どのような人生を歩んだのか。もし、この事件の加害者が君だったとしたら、二人暮らしの老妻をなぜ手にかけてしまったのか。「何か変だぞ」というあの訴えるように甦ってくる声を聞きながら、どうぞ別人でありますようにと願うばかりである。


2023年7月14日


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