新老楼快悔 第79話 松浦武四郎の和歌に思う

新老楼快悔 第79話 松浦武四郎の和歌に思う


 松浦武四郎の存在に興味を抱いたのは、釧路市に移住した直後だから、60年以上も前になる。市役所脇に道案内のアイヌ民族と並んぶ銅像があり、なぜか強く惹かれた。



 武四郎がどんな人物なのか。蝦夷地と呼ばれていた北海道をくまなく歩いた人、という程度の認識しかなかったが、その行動力に自分もそうありたい、と願ったのであろうか。
 道内各地を歩くうち、武四郎の足跡がそこここに残っているのを知り、いずれ武四郎の生涯を書きたいと思った。仕事に追われるまま定年を迎え、それが実現したのは2017年。『松浦武四郎 北の大地に立つ』(北海道出版企画センター)はそんな思いを詰め込んだ作品といえる。
 資料集めの段階から感嘆させられたのは、本人の書物の随所に出てくるさまざまな記録類だ。その土地の方角、隣地との距離などはもとより、天文、気象、動植物、風景、それに人々の暮らしまで絵図入りで記録されている。それに添えられた和歌に興味をそそられた。
 弘化2(1845)年、初めて蝦夷地を踏んだ時の和歌。

   玉ほこの 陸奥(みちのく)こえてみまほしき 蝦夷が千しまの 雪のあけぼの

 箱館(函館)から太平洋岸を東に向かい、知床半島まで踏破した武四郎は、翌弘化3年、松前藩お抱え医師の草履取りに身をやつし、江差から日本海岸を北進して宗谷に至り、そこから樺太へ。以降は単身、宗谷まで戻り、オホーツク沿岸を下って知床へ。2年かかって蝦夷地を一周する。ウトロ(斜里町)に残る和歌。

   山にふし 海に浮寝のうき旅も 慣れれば慣れて 心やすけれ

 3度目は嘉永2(1849)年、蝦夷地から足を伸ばして現在の北方領土を見聞し、「初航 蝦夷日誌」など3冊を書く。安政元(1854)年、再び黒船が来航。慌てた幕府は下田と箱館を開港する。この年、武四郎は「壺の石」という蝦夷地の克明な地図を著す。
 安政2(1855)年、幕府は蝦夷地を直轄地とし、箱館奉行を配置。水戸藩の推挙で箱館奉行の役人に取り立てられた武四郎は、翌3年、「蝦夷地請取渡差図役頭取」となり、向山源太夫を補佐して蝦夷地を巡回する。だが途中、向山が病死し、以後は武四郎が請取渡を代行する。

   千万の こがねはものかかしこくも 国の宝は道にしかめや

 安政4、5(1857、8)年は「蝦夷地一円山川地理等取締」として、石狩、天塩、尻別(後志)川などほとんどの川筋を精力的に調査し、蝦夷地が豊かな未開の大地であると確信する一方で、アイヌ民族が和人に虐げられ、悲惨な暮らしに泣いている実態を見聞し、こう詠む。

   心せよ えみしも同じ人にして この国民(くにたみ)の数ならでかは

 だがこの訴えはなかなか通じない。武四郎は憤然としてこう詠む。

   おのずから をしえにかなふ蝦夷人が こころにはぢよみやこかた人

 明治新政府になり、蝦夷地を北海道と名付けた武四郎は、アイヌ民族政策のあり方に疑問を突きつけ、役人を辞める。以後は江戸の片隅に建つ一畳間「草の舎」で、蝦夷地の模様を紹介する多くの書物を書き続けた。明治21年2月10日逝く。享年71。2年前の大晦日に部屋の壁に書いた遺書の最後に次の一首が添えられていた。

   世の中に つり合わぬ身ぞやすからん 暮行(くれゆく)年のいとなみもなく

 一世紀半も前に、武四郎という人物がこの北の大地を歩いていたということを、忘れてはなるまいと思う。




2023年3月17日


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