新老楼快悔 第54話 慣れることへの怖さ

新老楼快悔 第54話 慣れることへの怖さ


 新型コロナウイルスの猛威がとまらない。一時は減少傾向になったのに、またぶり返し、毎日、感染者の数字が発表されるたびに、震え上がるほどのおののきを覚える。
 報道によると世界の感染者は6億56万人、死者は648万人。国内は感染者1854万人、死者3万人を越えたという。道内だけみても感染者63万人、死者2386人(8月28日現在)。たとえが悪いが道内の60万都市の市民が全員感染し、小さな町ならすべて死滅するのに匹敵するほどなのだ。
 それなのに政府の対応に緊張感を感じられないのはなぜだろう。国民は国民ですっかり慣れきってしまい、「国内の感染者が一日20万人越え」と言われても驚かなくなってしまった。
 夕方、久しぶりに札幌の繁華街へ出掛けてみた。まだ夕暮れまで間があるというのに、通行人がぞろぞろ歩いている。マスクをしているが、話し声が弾んでいる。4、5人のグループが飲食店に入っていった。そっと覗いてみると店内は客でいっぱい。さすがに大声を出す者はいないが、結構、賑やかだ。(これじゃあ、減るわけがない)というのが率直な感想だった。
 感染者の自宅療養が増える一方で、それと並行して発熱外来が急増し、医療の限界が迫っているという。一体、これ、誰の責任なのか。だがそれを問う者はいない。
 慣れの怖さをもう一つ。ロシアのウクライナ侵攻が続いている。テレビは連日、その模様を流しているが、視聴者の方は「いつまでやってるんだ」という態度に変貌したものだから、視聴率に結びつかないとして最近は別物に手を出すようになった。例えば8月28日の新聞のラジオテレビ欄をご覧いただきたい。ロシアやウクライナの文字がすっかり陰をひそめてしまい、NHKの午前7時と午前10時の二件のみ。いや、驚いた。
 そんなことを思っていたら、この春、札幌から山形県米沢市に移住した年配のアイヌ民族の女性から、『ウクライナ青年兵士との対話』という詩集が送られてきた。一読して胸が熱くなった。戦闘で死ぬ寸前のウクライナ兵が女性の夢の中に現れ、語り合うものだ。



 なぜ戦わねばならないのか。なぜ話し合って解決しようとしないのか。人間には言葉があるではないか。プーチンとゼレンスキーが何時間でも何十日でもいいから話し合えば、どこかに解決への道が出てくる。アイヌ民族のチャランケとは、話し合いのことだ。

  言葉が/足りないから/相手の心に/届かないから/せんそうに/なったんじゃないのかしら/だから/言葉こそがたいせつなのよ/自分の希望や/思いを伝え/相手の希望や/思いを受入れ/譲りあえるところは/譲りあって/共に歩める方法を/探せないかしら…、おばあさん/ぼくの話を聴いてくれて/ありがとう/ぼくの肉体は/もう起きあがれないでしょう…/ぼくの血を/この大地に/染みこませ/二度と/ウクライナが/戦場に/なりませんように/祈ります/祈ります

 詩はもう少し続くが、読みながら忘れてはいけない、と思いを深くした。第2次世界大戦に敗れた遠いあの日が足早に過ぎてゆく。



2022年9月9日


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