新老楼快悔 第38話 知床岬の遊覧船事故に思う

新老楼快悔 第38話 知床岬の遊覧船事故に思う


 知床半島の西側海域(オホーツク管内斜里町ウトロ)で起こった遊覧船の海難事故に、身震いするほどの衝撃を受けた。同時に遠くなった“あの日”に思いを馳せた。
 武田泰淳の小説「ひかりごけ」の舞台となったのが、同じ知床半島の東側海域(根室管内羅臼町)。今回の海難現場のちょうど反対側に当たる。
 1943年(昭和18)12月4日、吹雪すさぶこの海域で陸軍暁部隊の輸送船(30トン―7人乗組)が、岬の突端近くの暗礁に乗り上げた。全員、船を捨てて陸地に上がったが、海中に転落する者もいて、無人の番屋(夏期に漁師が用いる建物)にたどり着いたのは船長(29歳)と炊事係の少年(18歳)だけ。2人は神棚にあったマッチで火を起こし、寒さをしのぐが、食糧もないまま衰弱していき、年が明けた1月20日ごろ、少年は餓死する。朦朧となった船長は、少年の死体を食べて生き延びる。
 生還した船長は〝奇跡の神兵〟と讃えられるが、漁期が始まった5月14日、船長が1冬過ごした番屋近くで、人骨入りの箱が見つかり、船長は殺人、死体損壊、死体遺棄容疑で逮捕される。



 この事件をもとに武田泰淳は1954年(昭和29)、小説「ひかりごけ」を書き、大きな反響を呼んだ。新聞記者だった私はその10年後、釧路地方検察庁の副検事から事件の資料を入手し、船長を探して会い、『裂けた岬』として1994年(平成6)に出版。2020年(令和2)に『生還』と改定して柏艪舎から英語版とともに出版した。
 今回の遭難は、岬巡り観光初日の4月23日に起こった。春の気配が漂いだしているとはいえ、船会社や船長の判断はあまりにも甘すぎた。地元の漁民の話によると、岬の先端あたりは5月の声を聞くまで強風が吹きまくる。日を選んで船を出すが、時化が予想される時は引き返すか、船を出さないという。
 この日は朝のうち穏やかだったが、午後から風波が高まり、出漁していた漁船は早々に港に引き揚げている。それを承知で船長はなぜ船を出したのか。思えば思うほどその粗雑な判断に苛立ちを覚える。
 ひるがえって、取材最中の早春、遭難現場をこの目で見たいと、町役場に頼み込んだが、危ない、と断られた。実際に小舟を出してもらい、現場に足を踏み入れたのは7月中旬だった…。
 遺体の捜索が長く続いているが、荒い海だけにどこまで流されたか想像もつかない。悔しい話だが、全員の遺体が収容されることは、まずないであろう。秘境・知床の名物観光だっただけに、その影響は計り知れないほど大きく、残念でならない。





2022年5月9日


老楼快悔トップページ
柏艪舎トップページ