新老楼快悔 第37話 三浦綾子さんの思い出(下)

新老楼快悔 第37話 三浦綾子さんの思い出(下)


 三浦綾子さんは上富良野町役場に着くなり、集まってくれた人たちに、
「本日はわざわざお集まりいただき、ありがとうございます」と挨拶し、深々とお辞儀をした。夫の光世さんも同様に頭を下げた。
 すぐに取材が始まった。綾子さんは一人ひとりから丁寧に話を聞いて、メモを取っていく。相手の人たちも真剣な表情で当時の様子を伝える。わが子を失った母親、親を亡くした娘の生の声を聞きながら、思わず涙を抑える夫妻。聞き取りは5時間以上に及んだ。



 終わって綾子さんは、出席者全員に謝礼金の入った小さな封筒とサイン入りの自著を差し出した。出席者はだれもがいただけませんと断った。災害のことを書いてくれる、それだけで亡き人が浮かばれる、というのだ。断られて綾子さんはこう言った。
「私のために時間を割いてくださったのです。ですからお願いです」
 人々はその言葉に、押しいただくようにして受け取った。
 この様子を見て、脳天を叩き割られるような衝撃を受けた。これまで新聞記者として、さまざまな取材を経験してきたが、こんな謙虚な態度で対象者に接したことがあっただろうか。ない。挨拶もそこそこに取材した日々が甦り、悔悟の念でいたたまれなくなった。それがいまも鮮烈な思い出として胸底に残っている。
 連載は翌年1月からと決まった。締め切りは1カ月前の毎週金曜日。この日午後5時に三浦家に行き、原稿を受け取り、それを本社に送るのである。なぜそんなに締め切りが早いのかというと、原稿を担当の画家に渡して絵を描いてもらう時間が必要なのだ。もう一つ、日曜版は別刷りで、本紙より早く刷らねばならないという〝お家の事情〟もあった。
 車両部の運転手が毎週この時間になると、早々と車に乗り込んで私を待つようになった。その理由は、私が三浦家に入り、原稿を受け取り、それを一読している間に、綾子さんは玄関先で待つ運転手にお茶を手渡してくれるのだ。えっ、本当か、それなら俺もいく、ということで、仕事の奪い合いになったらしい。
 こうした経過を辿って小説『泥流地帯』は1976年(昭和51)1月4日から連載が始まった。日曜版の紙面1頁を割いたこの連載は、最初から読者の高い評価を集め、やがて圧倒的な評判に連なっていった。原稿は一度も遅れることなく、本社に送られた。



 連載が始まって2カ月経って、私に札幌本社への転勤命令が出たため、後任者にバトンをタッチして旭川を離れた。出発前に三浦夫妻に招かれて送別会に出席した。嬉しくて涙がこみ上げた。
 このご縁がきっかけで、夫妻との交際は退職後も続いた。アルバムをひもとくと、夫妻と写した数々の写真がある。亡くなって23年も経つのに、思い出はなおも尽きない。





2022年4月25日


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