新老楼快悔 第015話 ジョン万次郎と北海道のつながり

新老楼快悔 第015話 ジョン万次郎と北海道のつながり


 えっ、あの万次郎が北海道と関わりがある?
 そう。ほんの少しだが、捕鯨の仕事を教えるために、函館に来ていたという。
 万次郎は天保12年(1841)、数え年十五の時、土佐国(高知県)宇佐浦から初めて漁船に乗り、漁に出た。ところが3日目の夜、強風に煽られて長さ四間あまりの小船は自由を失い、6日間も漂流し、小笠原諸島の北に位置する鳥島に漂着する。ここで143日間に及ぶ無人島暮らし。
 アメリカ捕鯨船「ジョン・ホーランド号」のウィリアム・H・ホットフィールド船長らに救助され、万次郎だけただ一人、仲間と別れて船長とともに捕鯨を続ける。船長の厚意でアメリカ東海岸のニューベッドフォードで航海術、天体術、高等数学などを学び、ジョン万次郎の名で世界の海を巡り、一等航海士(副船長)まで務めた。
 嘉永4年(1851)、10年ぶりに帰国するが、その二年後にペリー率いる黒船が来航し、開国を迫る。幕府は土佐藩が登用した万次郎を幕府直参に取り立て、中浜姓を名乗り、通訳や航海書の翻訳のほか、軍艦教授所の教授に任じた。
 万次郎が箱館(函館)へやってきたのは、幕府が蝦夷地を直轄地にした直後の安政4年(1857)。箱館奉行の記録によると11月17日。以下、こう記されている。

  今夕八時過ぎ藤田主馬、中浜万次郎着、直ちに箱館丸へ差遣し品々談じ有之。
  夜に入り宥之助来る。織部より伝言かつ書状もくる。直ちに万次郎乗組の儀相談申来る。同意の返事遣す。



 文中の箱館丸はこの秋、箱館奉行の船大工・続豊治が、日本人として初めて造船した洋式和船。もう一つ、織部は江戸在住の箱館奉行、堀織部正利熙を指す。ちなみに箱館奉行は全部で三人おり、箱館在勤は竹内下野守保徳、蝦夷地廻浦担当は村垣淡路守範正で、一年交替で勤務していた。従ってこの日記の記載者は竹内ということになる。
 ところが万次郎は来箱した翌18日、病気になってしまう。22日の項には、

  万次郎出勤につき、面会品々承る。

 とあり、一時、持ち直したようだが、万次郎に学ぶ予定だった役人たちは入港中のアメリカ船へ行き学んだとする記録が残る。漁師上がりの万次郎から教えを受けたくないといった感情があったのかもしれない。それが影響してか、万次郎自身、27日に船で江戸へ戻っている。僅か10日間の滞在だった。
 日米修好通商条約の副使木村摂津守を乗せた咸臨丸(艦長勝海舟)がサンフランシスコに向かったのはこの3年後の安政7年(1860)1月。万次郎は通訳として乗船した。咸臨丸が日本人だけで太平洋を航海した船として喧伝されることになる。
 歴史の意外な展開に、複雑な思いを抱いた役人がよほどいたに違いない。






2021年11月19日


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