新老楼快悔 第014話 相楽総三の墓はどこに

新老楼快悔 第014話 相楽総三の墓はどこに


『日本史の現場検証』(扶桑社)という本を出してもう20年になる。この取材で、明治維新が数々の矛盾のなかで成り立ったのを痛感させられた。もっとも残酷とされるのが「偽官軍」として処断された赤報隊の相楽総三らだ。なぜこんな事件が起きたのか。
 相楽らは幕末期、薩摩の西郷吉之助(隆盛)の内命で、将軍のお膝元の江戸を狙って騒乱を引き起こし、町人たちを震え上がらせた。
 慶応4年1月、戊辰戦争が起こり、薩長軍が朝廷より「官軍」のお墨付きをもらうと、山陰、東海、東山、北陸の諸道に鎮撫総督を設置した。西郷は相楽を京に呼び、公家の綾小路俊実、澁野井公寿を擁する東海道鎮撫総督府の官軍先鋒隊を命じた。
 相楽は直ちに赤報隊三隊を組織してその一番隊長となり、江戸攪乱時のメンバーを主力とした。二番隊は新選組を脱退した高台寺党ら。三番隊は草莽の志士と呼ばれる人々。
 ところが一番隊の出発までに官軍を表す「錦旗」が届かず、二人の公家も同行しなくなった。相楽が自ら建白して採用された「年貢米半減令」の念書をもらい、官軍のシンボルの赤熊(しゃぐま)をかぶり、「官軍先鋒」の大のぼりを押し立て、約300を率いて出立し、東海道ではなく東山道を進んだ。「年貢米半減令」は行く先々で歓迎され、新しい政府への期待が高まった。だが一方で略奪や乱暴などが続発し、赤報隊の仕業と噂された。
 新政府内では「年貢米を半減したら政治が成り立たない」として、東海道鎮撫総督府の名で急ぎ、赤報隊に引き揚げを命じた。二、三番隊は応じたが、相楽の一番隊は拒絶してさらに進み、下諏訪の先の桶橋に入った。赤報隊を追って鎮撫総督府が下諏訪に着いた。
 三月二日、相楽ら幹部七人が総督府に出頭すると、いきなり「偽官軍」として捕縛され、諏訪大社下社参道の木立に縛りつけられ、翌三日夕、斬首された。相楽30歳。
 首を討たれた長野県諏訪郡下諏訪町魁町の刑場跡に立つ「魁塚」を訪ねた。この地では相楽の死を悼む声とともに、新政府への厳しい指摘の声を聞かされた。



 相楽の墓は菩提寺の東京・品川区の専修寺にあると聞き訪れたが、墓だけ立っていて、遺骨はない、といわれた。だが過去帳が現存し、驚いたことに妻のテル子、25歳が相楽の百カ日法要後に自害しているのを知った。さらに末裔の努力で相楽らの罪が冤罪とわかり、1928年に贈位されたのを確認した。
 後になって、夫婦の墓が東京・港区の青山霊園立山地区にあるのを知り、お参りした。正面に夫婦の戒名が刻まれただけで、相楽を思わすものは何もないが、なぜか心が安らぐのを感じた。



2021年11月12日


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