老楼快悔 第105話 「どんぐりころころ」の歌碑

老楼快悔 第105話 「どんぐりころころ」の歌碑


  どんぐりころころどんぶりこ お池にはまってさあ大変
  どじょうが出てきて今日は 坊ちゃんいっしょに遊びましょう
 
 童謡「どんぐりころころ」の碑が札幌市中央区南3西7の創成小学校敷地内に建っている。横長の石板に音譜と歌詞を刻んだ碑である。でもなぜ、この碑がここにあるの?



 実は作曲した梁田貞(やなだただし)が子どものころ通ったのがこの小学校だった。梁田は「城ヶ島の雨」の作曲者として知られる。作詞は青木存義。
 開拓使の幹部、梁田政輔の四男として札幌に生まれた梁田は、子どものころから俊才といわれ、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽部)に入学し、声楽と作曲を学んだ。
 大正元年(1912)から東京府第一中学校(現在の都立日比谷高校)の音楽教師をしながら、時間講師として東京音楽学校、東京外国語学校、成城学院、玉川学園、東京女子体操音楽学校などに出向き、音楽教育に尽力した。
「どんぐりころころ」が雑誌『かわいい唱歌』に発表されたのは大正10年(1921)だから梁田が36歳の時。なぜこんな童謡が生まれたのか。それは作詞の青木存義の少年期の暮らしと当時の世相によるもの、と思える。
 青木は宮城県松島町生まれ。子どものころは寝起きが悪く、困った母親がわが家の池にどじょうを飼った。近くにどんぐりの木がたくさん生えていて、秋になると、地面に落ちてきた。池に落ちるのもあった。
 この時期、わが国は日清、日露戦争から、第一次世界大戦へと戦火を拡大させていた。若者たちは兵隊にとられ、残された老人たちは貧しさにあえぎ、娘たちは出稼ぎや身売りまでして家を助けた。
 青木はこうした貧しさと戦う若者たちをどんぐりにたとえ、ユーモラスな雰囲気をかもしながら、哀しい歌を作りあげた、と解釈する識者もいる。
 たしかに歌詞には「お池にはまってさあ大変」とか「やっぱりお山がお恋しいと」など、庶民の悲惨さを訴える場面がのぞく。
 青木の故郷、宮城県松島町の名所、観瀾亭にも、札幌と同じ碑が建っている。


 
2021年5月28日


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