老楼快悔 第58話 「関寛斎」という人

老楼快悔 第58話 「関寛斎」という人


 新聞記者になりたての頃から心に留めてきた「関寛斎」の本がやっと出版された。『評伝 関寛斎1830-1912』(藤原書店)である。医者でありながら、73歳の高齢で十勝の陸別町の未開の荒野に入植し、広大な農場、牧場を切り開き、人間平等の精神をあくまで貫いた。
 不思議な人だとしみじみ思う。医者となり、認められて徳島藩のご典医になり、戊辰戦争の奥羽の野戦病院長として戦線へ赴き、負傷兵士を敵味方なく治療した。帰藩後、兵部省や医学校など多くの要請を断り、家禄を返上して町医者になった。「医は人を救うためにあり」として、貧乏人からはお金を取らず治療した。ある家の壁には「関大明神」と書いた貼り紙があったほどで、人々はその姿を伏し拝んだという。
 そんな寛斎が北海道開拓に目を向ける。理由は七男又一が札幌農学校に入学し、農業の実践を望んだことによる。寛斎は北海道国有未開地処分法に基づいて十勝・陸別の未開地を取得し、農学校を卒業した又一が中心になって開墾を始める。
 寛斎が妻アイとともに札幌に入り、妻を残して陸別の斗満に入植したのは明治35年(1902)。
 寛斎はなぜ極寒の地であるこの地を選んだのか。明治30年代になると入植者が相次ぎ、十勝の奥深いこの地しか残っていなかったのだ。だが寛斎はここに満足した。手つかずの大地に新しい国を作りたいとの思いがあったのだ。誰もが笑顔で暮らすことのできる平和な町、平等な町こそ、寛斎の狙いだった。
 寛斎は関農場を設け、農作物を育てながら馬牛を飼育した。作業員が怪我をすると、赴いて治療した。付近に住むアイヌの人たちの治療もしたので、いつしか遠くからも病人がやって来るようになった。
 だが、大きな壁にぶつかる。農学校を出た又一の理想は大規模農業の実践。父寛斎とは対立する考えだった。この間に札幌の妻が死ぬ。寛斎は涙ながらに詠んだ和歌。

  諸ともに契りし事は半ばにて 斗満の原に消ゆるこの身は



 以後、寛斎は豊頃に入植した二宮尊徳の孫、尊親と親交を深め、報徳組合を作り、開墾をすすめていく。だがロシアの文豪トルストイと明治天皇の死が伝えられ、しかも孫(長男の直系)に遺産相続の訴訟を起こされる。寛斎は呆然となり、自ら毒薬を煽って死んでいく。享年83。

 死後108年。寛斎が残した陸別の町は、緑豊かな大地に育った。寛斎広場にある寛斎像を前に立つと、同じ時期に同じ四国から入植した祖父の面影と重なり、胸迫る。


















 
2020年6月5日


老楼快悔トップページ
柏艪舎トップページ