老楼快悔 第16話 永倉新八と新聞記者

老楼快悔 第16話 永倉新八と新聞記者


 新選組の永倉新八が小樽で亡くなった、という思いがけない事実を知ったのは、新人物往来社の依頼で歴史物のノンフィクション作品を書き出したころだから、もう40年も前になる。しかも新八が「小樽新聞」の記者に語った内容が「新撰組 永倉新八」の表題で連載され、新八が亡くなって13回忌に、この連載を長男杉村義太郎がまとめて上梓した。新人物往来社がこれを基に『永倉新八 新撰組顚末記』を発刊し、新選組ブームを生む発端になったことも知った。
 いまは紙面で、著名な人物が語る記事をよく見かけるが、このインタビューが掲載された大正初期は、まだ明治維新から40年余りしか経過していない。しかも幕府方の新選組など歯牙にもかけられない存在だったはず。それだけに新選組創立期の唯一の生き残りである永倉新八に着目した小樽新聞の記者の慧眼に、敬意と感謝の念を深くした。
 私も多くの人物のインタビューを重ねてきたからよくわかるが、まず第一に、取材する相手に信用されなければ、話は進まない。おそらく記者は新八に惚れ込み、新八もまたこの記者の情熱に打たれて、熱っぽく語ったであろうと推察したい。それは文章にはっきり表れている。たとえば書き出しはこうだ。

 年のころなら七十四か五、胸までたれた白鬢が際立って眼につき、広き額、やや下がった細い眼尻に小皺をよせ、人の顔を仰ぐように見ては口のあたりに微笑をたたえてすこしせき込み口調に唇を開く。(略)どこやらに凛としたきかぬ気がほの見えて枯木のようなその両腕の節くれだった太さ、さすがに当年永倉新八といって幕末史のページに花を咲かせた面影が偲ばれる。

 読んで、うまい、というより、この人物の風貌を、人柄を、すべて語り尽くそうとする必死さが、文面から立ちのぼってくるのを感じるのだ。
 以下、新八の生きざまが70話にわたって綴られていく。近藤勇、土方歳三らとの出会い、新選組の誕生、池田屋襲撃、禁門の変など、幕末史を彩る動向を一人の人間の視点からとらえ、最終をこう締めくくっている。
 
 死生のあいだをくぐること百余回、おもえば生存するのがふしぎなくらいの身を、大正の聖代まで生きのびて往生の敵も味方もおなじ仏壇に朝な夕なのとむらいの鐘の音をたたぬ。

 読み終えて新八をより身近に感じつつ、執筆した記者への感謝の気持ちが溢れた。



 
2019年4月8日


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