老楼快悔 第40話 4日間書きつづけた北大生の「遺書」

老楼快悔 第40話 4日間書きつづけた北大生の「遺書」


 十勝管内中札内村の日高山脈山岳センターに北海道大学四年生で山岳部リーダーの沢田義一さん(享年22)が書き残した「遺品」が展示されている。雪塊に埋もれながら、死ぬまでの4日間にわたり書き綴った「書置」である。
 沢田リーダー以下、女性1人を含む6人の北大山岳部員が日高山脈縦走のため中札内村上札内を出発したのは昭和40年(1965)3月11日。幌尻岳(標高2052メートル)などを経て、24日に帯広市八千代に下山する予定だった。
 だが下山予定日を過ぎても帰らず、北大山岳部は「遭難した可溶性がある」として26日、道警本部に届け出た。自衛隊帯広駐屯部隊の飛行機が捜索したが、吹雪で断念。
 北大山岳部が現地に入って捜索し、札内川上流の十の沢付近に大きな雪崩の跡があり、この雪崩に巻き込まれたとの見方が強まった。道警、自衛隊、北大による大がかりな捜索が行われたが、結局、何も得ることができないまま、捜索を断念した。
 3ヵ月経った6月13日、八千代口から入山したパトロール隊が十の沢付近の積雪を掘り起こしたところ、約2メートル下から遺体1体と、押しつぶされたテント、寝袋、ナタなどが発見。遺体の衣服についていた北大山岳部のバッジ番号とポケットに入っていた身分証明書から、身元は沢田義一リーダーと判明した。カッターシャツの右ポケットから札内岳の地図2枚が見つかり、その裏に万年筆で「書置」と書いた遺書が見つかった。
 この文面から、雪崩は3月14日午前2時ごろに発生し、沢田リーダーは雪崩の下敷きになりながら4日間、死と直面しつつ、書き綴ったものとわかった。その一部を掲げる。(……は省略を表す)

「書置」3月14日(?)の深夜2時ごろ(後で時計を見て逆算した)、突然、ナダレが雪洞をおそい、皆寝ているままにして埋められてしまった。
……皆は最初の一しゅんで死んだようだったが、私は幸いにして口のまわりに隙間があったのだ。次第次第に広げて、ついにナタで横穴を2m近く掘って脱出しようとしたが、外はデブリで埋まっているためか、一向に明るくならずついに死を覚悟する。
……お母さん、お父さん、ごめんなさい。一足先に行かしてもらうだけです。きっと何かに生れ変ってくるはずです。僕はその時、お母さん、お父さんを見守っているはずです。……とり返しのつかない失敗をしてしまって。皆さんのお母さんごめんなさい。
……三月十四・十五・十六・十七日と寝たり掘ったりする。日付は時計の針でのみ計算する。ナタが手に入った。懐中電灯が二ケ、スペアの電池が一ケ、非常食が二人分。掘っても掘っても明るさがでてこないのでがっくりしている。生は10%ぐらいだろう。
……お母さん、今死んでしまうなんて残念だ。折角背広もつくったのにもうだめだ。

 この翌日第三次捜索隊が入り、6月20日に残りの5人の遺体を収容した。沢田リーダーの遺体からわずか1メートル下で、寝袋に並んで入り、眠ったままの姿だった。
 毎年のように冬山遭難が起きるたびに、あの「書置」を思い、胸を締め付けられる。









 
2019年12月6日


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