原子修先生『太宰治 母源への回帰』刊行記念インタビュー

原子修先生『太宰治 母源への回帰』刊行記念インタビュー

7月発売の『太宰治 母源への回帰』の著者、原子修先生に
本書を書かれたときのお話をお伺いしました。



編集部 本書『太宰治 母源への回帰』の構想を思いつかれたのはいつ頃ですか?

原子修先生(以下「原子」) これは相当早いんです。四十年くらい前に“縄文の血”に目覚めたんです。一番のきっかけというのは、私の苗字。「原子」という苗字がどうも不思議なので、これは当て字じゃないかなと思って、いろいろと調べていったんです。
実は旧制中学校時代に同級生が私をからかって「ぱらこ、ぱらこ」と言っていたんです。彼は馬鹿にしていたつもりだったんでしょうけど、私は「えーっ」という感じを受けて、そのほうが実感があるなと思ったんです。
 
編集部 へえ、「ぱらこ」のほうがしっくりきたんですか?

原子 「パラ」は縄文語・アイヌ語地名で「広い」という意味なんです。「コ」は縄文語・アイヌ語地名では「コッ」で谷という意味です。実は、「はらこ」というのは「パラ・コッ」が訛って変化した地名から来た苗字なんです。だから、私の本名は「広谷」なんです。
 
編集部 広谷さんだったんですね。(笑)

原子 はい。はっはっは。永田方正(ながたほうせい)という明治期の研究者がいて、『北海道蝦夷語 地名解(ちめいかい)』(1891年)という本を出しているんですね。それを見たら、「パラ・コッ」という地名があったんです。これは非常にうれしかったですね。自分の普段使っている苗字が縄文語から来ているとわかって。

編集部 アイヌ語とはまた違うんですか?

原子 アイヌ語というのは縄文語系の言葉ですね。縄文語がどのようにアイヌ語につながったか。それについての研究はこれからの大きな課題でしょうね。ともあれ、私の先祖は津軽ですから、私は津軽の縄文人の血を受け継いでいるらしいんです。


〈三内丸山遺跡 http://www.i-treasury.net/

編集部 三内丸山遺跡もありますね。

原子 ええ。あの一帯は紛れもなく当時非常に栄えた縄文の郷(さと)だったようですね。

編集部 中心地だったんですか?

原子 でも厳密に言えば、縄文時代は全地域がそれぞれ独立した地域共同体の世界で、それが自然に連帯していたようなんです。そんな訳で津軽の縄文世界が私の原郷であるという思いがだんだん強まってきたんですね。

編集部 その前から太宰は読まれていたんですよね?

原子 ずっと読んでいましたけど、そういう目で見るということはしていなかったんです。同じ縄文を原郷として生きた現代の津軽の人のなかで、そういった縄文の原郷を芸術に取り入れたのは誰かというと、まずは棟方志功ですね。

編集部 へえ。棟方志功は大好きです。

原子 非常に奔放で自由人。おおらかで激しいでしょう? 彼は縄文世界の自由感に満ち溢れた人です。それでは文学は、となったときに、「あっ、太宰治。金木町! 私の祖先の地、五所川原と隣の町だ!」ということで、そういう目で太宰を読みだしたんです。そしたら、そこにあるわあるわ(笑)。縄文の残響が。それですっかり虜になっちゃったんです。それが、ちょうど三十年くらい前のことです。それから大学の講義にも取り込んで、主な作品を全部読んで、それが今回の評論書に結びついた、という訳なのです。

編集部 講義のときの学生さんたちの反響はどうだったんですか?

原子 文学部がないところなので、一般教養として開講しました。

編集部 かなり集まったんじゃないですか?

原子 1100人くらい。

編集部 それは大学生だけですか?

原子 そうです。全学部の学生の共通科目でしたから、常時1100人くらい受講者がいましたね。一年間いろいろな映像を使ったりしながらやりました。できるだけ立体的に、興味深く。
 
編集部 本文中にでてくる“カミサマ”(編集部注:津軽地方の祈祷者。ゴミソともいう)の話も面白かったです。

原子 小樽にも“カミサマ”と言われる女性がいたんです。地元の人はよく人捜しとか、困ったことがあったら行って、お告げを聴くのです。そのカミサマのところに行ってみたんですよ。その人はやっぱり、もともと先祖が津軽なんです。

編集部 そうなんですか。

原子 道南の茅部(かやべ)という町で、お父さんが神社の神主さんをやっていたらしい。彼女は非常に巫女の資質が豊かなので、イタコさんになったということです。ただ、イタコというのは道南では職業化できないので、カミサマになったということです。

編集部 その方にお会いしてどうでしたか?

原子 太宰治の乳母のタケさんの世界が、小さい頃から太宰治に強く影響していたんだな、ということがわかりました。タケさんの娘さんがいらっしゃるとわかったので、タケさんが嫁いだ小泊の金物屋さんまで、私も行きました。

編集部 まさに、太宰の小説『津軽』の旅ですね

原子 そしたら、そこにいたのが息子さんでした。
 
編集部 お会いしたとき、息子さんはおいくつくらいだったんでしょう?

原子 五十代くらいの感じでした。そして自分の姉のほうがいろんなことに詳しいから行ってみたらどうかと。タケさんの娘さんは小泊の外れのほうに住んでいたんですよ。お会いしましたが、根っからの津軽の女性でした。非常に豊かな津軽語の発音なんです。

編集部 へえ、太宰もそうやって育てられたんですね。

原子 そうなんです。「はな」が唇音の「ふぁな」なんです。まさしく縄文語の感じなんですね。タケさんの感じがよく出ていました。

編集部 それは、お会いになってみないとわからないですね。

原子 それで、ますますのめりこみました。修治さん(編集部注:津島修治。太宰治の本名。)は小さい頃、乳母のタケさんと一緒に何年も暮らしました。一番感受性の豊かな年頃です。もろに影響を受けたと思います。タケさんの家族が代々日常的に受け継いできた縄文の残響ですよね。庶民の方々は一般に、昔ながらの生活の流れを自然に伝承していますから。幼い頃の修治さんは、ほとんど全身全霊でタケさんを受け入れたんですね。つまり縄文を受け入れたんですね。

編集部 なるほど。

原子 津島家では、それはあまり喜ばしいことではなかったようですね。津島家はすでに没落縄文人から抜け出し富裕層に入った訳ですから、むしろ縄文系の人々から搾取する地主という立場になっていた訳です。そういう津島家では、縄文系の生き方はやっぱり異端なんですね。そういうことがタケさんの家族と会ってよく実感できました。その縄文の残響っていうのは、実は私のなかにもあるものなんです。それが響き合ったものですから、無我夢中で、自分のルーツを探し当てたい一心で、太宰治のルーツに入っていったんです。
 
編集部 面白いですね。


〈岩木山 (トリップアドバイザー提供)〉

原子 そして『津軽』という小説を読んでやっぱりそうなんだと、得心しました。

編集部 太宰の作品の中に縄文を見出したんですね?

原子 そうです。自分の実際に実感しているものと共通の体験だったんですね。では縄文とは何か、というところまで入っていこうとしたんですけれども、そういう意味で、一番太宰文学からそれを感じたのは『富嶽百景』ですね。『津軽』は私にとって、太宰文学への入り口でした。修治さんの“縄文魂”が一番はっきりと表われているのは『富嶽百景』ですね。つまり徹底的に富士山を揶揄しているんですよ。決してあれは富士山を賛美する作品じゃないですよね。そんな気は毛頭ない。むしろ全否定の作品です。だから面白いんです。何を肯定しているかというと、弘前の岩木山なんです。

編集部 そうですね。

原子 岩木山ほど美しいものはない。それに比べたら富士山は置物に過ぎないと。それが太宰治の見方なんです。岩木山というのは、津軽の縄文人がずっと見ていた山ですから。同じ山を見て同じ感覚を持っていたんでしょうね。富士というのは、中央集権の日本のシンボルになっているでしょう。彼はそれが大嫌いだったんです。だから彼は徹底的に富士山というものを揶揄し、否定しているんです。

編集部 なるほど、富士山に中央集権を重ねていたんですね……。

原子 私もまったく同じ感覚なんです。だからそれよりは自分の生まれ故郷の岩木山のほうがずっと美しいということです。もっと言えば、みんな自分の生まれ故郷の山が一番いい山だと、そう思っているに違いないと。それを全国一律に日本の代表の山は富士山である。そういうのが許せないという反骨精神があるんですね。大和王権が一番手こずったのは津軽の人なんですね。大和王権に服従しなかったんですよ。彼らは荒蝦夷(あらえみし)と呼ばれていました。

編集部 そうなんですか。

原子 ええ。だから太宰は、典型的な荒蝦夷なんです。縄文時代に縄文人が持っていた集団的な潜在意識がそのまま心の奥底に地下水のように流れ込んでいて、それをタケから受け継いだ。自分の中に潜在するものを、タケによって気づかされたということでしょうね。だから修治さんの兄弟と彼はまったく違いますよね。

編集部 たしかに。

原子 彼を文学に目覚めさせたのは、たしかにお兄さんですけれども、本当に彼が自分の文学の真髄に到達できたのは、やっぱりタケの影響ですよね。そういうことで私の太宰文学の遍歴が始まったんです。私が一番根底に据えようとしていたのは、ユーラシア系文明と縄文文明の相克の問題ですね。結局一万年以上戦争のない、人類史上希な、奇跡的な文明を築き上げた縄文人が、大陸から来た弥生系の人々によってたやすく滅ぼされた。これをもって、悲劇と言わずになんと言うか、ですよね。懐柔もあり、なかには虐殺もあり。弥生人は武装していますからね。縄文人は武装していませんけど。いずれにしてもたやすく滅ぼされて。蜜と毒の文明ですよ、ユーラシア大陸文明というのは。つまりお米を栽培して収穫すれば、食うには困りませんよと。それは蜜の部分だけれども、そのために収穫したものを商品化して富にする。そしてまたそれを守る、奪う、という形での武力闘争が始まる。農耕文明と金属器文明が弥生系の人々によってもたらされて、日本は戦争国家になるんですよね。

編集部 ええ。

原子 それに対して太宰治は一貫して反骨しているんですね。その象徴が富士山なんです。新しいユーラシア大陸系文明に組み敷かれてしまった戦争国家に変身した日本。弥生時代半ば頃から日本はずっと戦争国家なんです。それが特にひどかったのが戦国時代でしょ。徳川時代は平安だと言うけれども、庶民の反乱も相当あり、幕府の弾圧による処刑もあり、決して血を見ない時代ではなかったんですよ。だから驚くなかれ、弥生時代から昭和二十年まで日本は軍事独裁国家だったんです。それに対して太宰治は許し難いものを持っていたんですね。それは津軽人のなかに潜在している縄文人の魂なんです。

編集部 なるほど。




編集部 太宰のなかで一番好きな作品は『津軽』ですか?

原子 『津軽』は文学的でもありますが、記録的な部分もありますよね。『津軽』が一番太宰治の秘密を解く鍵になっていますけれども、私が一番修治さんの作品のなかで心を打たれたのは甲府を舞台にした『新樹の言葉』です。これは本当に彼の真髄を全部表現していますね。あれが彼の一番自己解放された、いい作品じゃないかと思っています。『走れメロス』も素晴らしいし。あれだって根本にあるのは、縄文人が助け合い支え合ってきたという自己犠牲の愛の表れです。彼は意識しなかったけれど、作品のテーマのすべてが縄文的なもので一貫しているんです。
『富嶽百景』だって、結局富士山は見ないで、反対側の道端の月見草を見ていた。そして、あの月見草はよかったと言っている。巨大な富士山よりも月見草のほうがずっと、自分にとっては価値がある、という言い方のなかに自然回帰への願望が込められているんですね。人々が完全に虚像化してしまった富士山。ファシズムやミリタリズムや戦争国家の悲劇的な中央集権国家の帝国主義の牙城としての富士山ではなく、道端で密かに咲いて散っていく月見草に目をやる。ああいうところに彼の批判精神があるんですね。

編集部 太宰の作品を全部読まれて、生き方など影響を受けましたか?

原子 生き方としては、ますます私の原郷である津軽の縄文に潜入しなければならないと思いました。
『パパラギ』という本がありまして、これはサモアの首長の“ツイアビ”の演説集なんですね。「パパラギ(白人)の文明は間違いである」と、この一言がいいですよね。これを太宰の言葉に言い換えれば、中国大陸から渡ってきてユーラシア大陸系の農耕文明と金属器文明を持ち込んだパパラギ(弥生人)は間違いであると。そういう文明観というものを、私はしっかり持たなきゃいけないと思いました。修治さんの時代というのはまだ縄文研究がそんなに進んでいなかった。いまは考古学から人類学からいろいろな研究が進んでいるので、それらを全部見ながらもう一度太宰文学を見直したのが本書です。
結論は、やっぱり太宰は二十世紀の縄文人。私は二十一世紀の縄文人(笑)。

編集部 なるほど。

原子 いまは太宰が生まれ育った金木町は、私の先祖がいた五所川原市に合併されて、同じ町になったんですよ。私の先祖の町と太宰治の町とが同じ町になって、ますます親近感が沸きました。太宰治の文学の延長線上で何が出来るかというと、やっぱり文明批評かなと思います。縄文文明は表層的には滅ぼされたかに見えるけれども、脈々と残っているんですよね、潜在的に。縄文人の血であり意識であり、考え方であり生き方であり。それをもう一度見直したいです。ユーラシア系文明が滅びる寸前の今こそ縄文文明の再評価が重要なのです。

編集部 あとは、落ちる一方と?

原子 文明の優位性というか、ユーラシア系文明の優位性を証明する、それだけのものなんです。ただ、簡単には引き下がらないでしょうね。だからこそ、太宰文学が持っているものの延長線上で、新しい縄文文明の読み直しをすべきであると思います。それが私のこれからの仕事になってくると思います。

編集部 母源喪失が太宰の原点という形で書かれていますが、それは『津軽』を読んでいて気づかれたんですか?

原子 それは私の経験と重なり合っていたからです。

編集部 そうなんですか?

原子 ええ。私はね、函館の郊外の原子牧場で生まれたんです。ところが、都市化が進んで、いまで言う地上げ屋が盛んに私のおじいちゃんのところに来たんです。そしておじいちゃんに酒を飲ませて、だまくらかして借金の保証人にして、全部巻き上げちゃったんです。

編集部 土地全部をですか?

原子 牧場も土地も全部です。つまり、騙し討ちですね。かつてコシャマインとかシャクシャインとかアイヌの人たちが、結局は弥生系のユーラシア大陸系の武将たちによって騙されたのとまったく同じやり方です。
私は幼い頃そういう経験をしているものですから、いろんなことを調べているうちに、コシャマインやシャクシャインが騙し討ちされたのとまったく同じように、うちのおじいちゃんも騙し討ちされて全財産を取られちゃったんだとわかった。牧場ってのいうはある意味で言うと、自然的なものを保存できる最後の砦なんです。それが奪われたから、あとは一族離散ですよ。

編集部 何世帯も住まわれていたんですか?

原子 ええ。大きい牧場で家も何軒もあって、兄弟みんなでやっていたんです。私の父が長男で東京獣医学校で勉強して、獣医なんですよ。更科源蔵とおんなじ学校でしたね。二十人くらいの大家族でした。それが結局、一族離散なんですよ。だから亡命の旅ですよね。縄文系の、人間を信頼するという気持ちの強い人が結局は騙し討ちに遭って滅びていく。その命運を私も辿っているんだなと。木古内とか江差とか札幌とかほうぼう、父親の転勤について歩きました。父も獣医でしたから。桧山支庁とか石狩支庁とかにね。私にしてみれば、それは亡命生活なんです。自然から追い払われたということですね。自然という自分の一番大事な原郷から追い払われた。
原子一族というのは五所川原の縄文の風土から追い払われて、函館に流れて来たんです。そこでひいおじいちゃんが牧夫になって働いて、時任牧場というところから牧場を分けてもらって、原子牧場というかなり大きな牧場を経営していたんですね。それが今度また騙し討ちに遭ったと。

編集部 そういう喪失感があったからわかったのですね。

原子 そうなんです。やっぱり修治さんの場合も、どんどん津島家自体が衰退していくわけでしょう。彼の人生も衰退していく。信ずべきもの、自分自身が依存すべきもの、それは縄文の原郷なんだけれども、それは幻の原郷なんですね。結局は原郷回復の、たった一人だけの孤独な闘いを東京で挑んで、ついに敗北するわけですよね。そして自殺する。そういうことになるわけです。
私はその道を選ばないで現代詩の世界に入りました。それが抵抗の武器だったんですね。古代ギリシャのヘシオドス、ソクラテス以来の、文明に抵抗してきたそういう人たちの力を得て、私自身は闘ってきたと。だから私が太宰治を取り上げたというのは、むしろ詩をやっていたからなんですね。

編集部 そうなんですか。

原子 原郷回帰の旅なんです、私にしてみれば。重要な先人の一人が太宰治であったと。

編集部 太宰をとおして文明の流れについても伝えたいと?

原子 いえ、太宰文学というのはそこまでは言っていないんですね。あくまでも結局は原郷を奪われて、根無し草のように亡民というか、亡命者のように、もっと言ったら難民のように生きていく。その一人一人のなかに深いドラマがあり、またいろいろな苦難のなかに一抹の喜びがあると。そういうようなことを実に上手に太宰は表現していますよね。そういう意味では『哀れ蚊』などは非常に優れた作品です。

編集部 そうですね。

原子 太宰文学の根源にあるのは、縄文人としての失われた母源への必死な奪還活動であった。いまのように、かなり文明論の研究も進み、人類史も比較にならないくらいわかってきて、さらに考古学的にも人類学的にも研究が進んでくると、実によくわかるんですよね。太宰は学問的にではなく、自分の個人の体験として無意識のうちにこれを掴んで表現していたんです。それが『津軽』という作品なんですね。『斜陽』なんかもそうですよね。結局は滅びる人々、滅びゆく人々なんです。華族の流れだとしても。弥生時代以降、日本は階層社会になってしまって、空蝉(うつせみ)の如き華族の儚い栄華のなかで生きる人間が結局は徹底的に滅びる。そういう姿っていうのを実に美しく表現していますよね。

編集部 太宰自身もそうやって儚く生きましたね。

原子 彼自身としてはとにかく、タケさんによって誘導された母源に帰る道は“死”しかなかったんですね。

編集部 その母源は、産みの母親ではなくてタケさんだったのですね?

原子 タケさんによって確定的に誘導されたものなんですね。なんて言ったらいいのかな。それはもやもやしているけれども、縄文が残したルーツですね。でも、彼にはその意識はなかったはずです。無意識のうちに、本書では“地母神”と表現していますけど、特に女性を通して母源に帰ろうとした。でも帰りきれなかった。そして絶望して死ぬことによって、初めて帰ったのかもしれないし、帰れなかったのかもしれない。

編集部 最後に、「まともな大人は太宰作品を読まない」という説がありますが、それについてはどう思われますか?

原子 それはまともな大人の言うことじゃないですね(笑)。

編集部 たしかに(笑)。

原子 太宰治は、いま、日本人にとって一番重要な作家です。太宰文学をもう一回読み直す。そうしないと、現在ユーラシア系文明の崩壊に瀕していて、日本人はどうすべきかということに答えを出せないと思いますね。

【インタビューを終えて】
太宰文学は語りつくされてきたと思っていましたが、母源喪失という観点から太宰を説くというのは新鮮な驚きでした。その母源喪失に気づいたのは、原子一族の悲しい歴史と結びついていたということをお伺いし、だから原子先生は太宰の深層心理にまで寄り添うことができたのだと感じました。原子先生の壮大な思想に触れ、はるか縄文時代に思いを馳せる素敵なインタビューでした。