老楼快悔 第78話 ペリーが北海道へもやってきた

老楼快悔 第78話 ペリーが北海道へもやってきた


 ペリー艦隊が蝦夷地と呼ばれていた北海道の箱館にやってきた、という話はあまり知られていない。「箱館入港亜米利加船触書」(函館市中央図書館蔵)には箱館の町のおののきが詳しく記されている。
 嘉永七年(1854)三月、ペリー艦隊は再び日本を訪れ、強硬な姿勢で日米和親条約を締結した。艦隊は開港場になる箱館港を見たいとして、北へ針路を取った。
 この情報に箱館周辺の村々は震え上がった。松前藩は家老松前勘解由(まつまえ かげゆ)を箱館に派遣し、港内や海岸線、台場などを調査したうえ、穏便にもてなす体制を固めた。そして各村役所に触れ書を出すよう命じ、知内や上ノ国から木古内間の峠の番所に、通行人の取締りを命じた。
 箱館の町役所は四月七日、町人に対して次のような触れ書を出した。筆字で十一頁に及ぶ長文だが、驚くような文面が見える。
 黒船を発見したら、速やかに各自の持ち場につけ。船を見ようと浜辺に出たり、屋根に登ったりするな。海辺の家は戸や障子を立てよ。手真似で異国人と話したら、捕まえて牢屋に入れる。漁船は残らず沖の口役所より内側に入れよ。女性は老若問わず外出は一切禁止。酒は見えない場所に隠せ。餅菓子、草履などは店先に出すな。牛馬による荷物の運搬はするな。神仏の参詣は慎め……、といった具合だ。
 四月十五日、三隻の異国船が箱館の山背泊沖に現れ、停泊した。松前藩の応接方が小舟で近づき、乗り込んだが、言葉が通じない。異国船は翌朝から港内の測量を始めた。二日後に食料と水を要求したので、応じたが、上陸して市中見物したいとの要求は断った。
 二十一日朝、大型火輪船の旗艦ポーハタン号とミシシッピ号が入港して、巨大な火を吐いたので、藩役人も町人も仰天するほど驚いた。翌日、箱館の山田屋寿兵衛方の座敷で日米会談が開かれたが、松前勘解由は相手の要求をのらりくらりかわした。勘解由の“こんにゃく問答”といわれ、その巧みさが評判になったという。
 この間、箱館の街は大騒ぎが続いた。あれほど厳しく指示したにも関わらず、町民たちは物珍しさの余り、海辺に出たり、アメリカ船員に話しかけたりした。
 函館の街を歩くと弁天町に「ペリー会見所跡」の碑が、元町にはペリー像が立っている。現存する勘解由の写真は、撮影すると左右対称になるので、着物の襟元も、刀の差す腰元も、逆にして写している。それを知ると可笑しさがこみ上げる。













 
2020年11月6日


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