老楼快悔 第46話 小林多喜二が立てた墓

老楼快悔 第46話 小林多喜二が立てた墓


 小林多喜二が東京・築地警察署で、特高警察により拷問を受け、絶命したのは昭和8(1933)年2月20日夜。毎年、命日近くの休日、小樽市奥沢の墓地で墓前祭が催される。
 この墓、実は母セキがかねてから望んでいたもので、昭和5年に東京に出た多喜二が、原稿料の中から500円を母に送り、その金で建立したもの。墓の正面に「小林家之墓」、墓の側面に「昭和五年六月二日 小林多喜二建立」と刻まれている。見方によっては多喜二に関わる数少ない歴史的文化遺産ともいえる。
 多喜二は秋田県下川沿村生まれ。4歳の時、一家で伯父を頼って小樽に移住した。小樽高商(現小樽商大)卒後、北海道拓殖銀行小樽支店に勤務するが、プロレタリア文学に傾倒していく。
 政府は昭和3年(1928)3月15日、左翼組織の弾圧に乗り出し、全国で数千人を逮捕、うち483人を治安維持法で起訴した。小樽でも500人が逮捕され、共産党員13人が起訴された。
 多喜二が作品『一九二八年三月十五日』を日本無産者芸術連盟機関紙「戦旗」に発表し、激怒した特高警察は多喜二を検挙し、取り調べた。だが多喜二はその後も『蟹工船』や『不在地主』を発表し、プロレタリア文学の最先鋭作家になる。これにより拓銀解雇。
 特高警察は昭和8年2月20日正午過ぎ、東京・赤坂に変装して現れた多喜二を追いかけて逮捕し、築地署に連行して3時間にわたり殴る蹴るの拷問を続けた。意識を失い雑居房に入れられたが、容体が急変した。すぐ警察署裏の病院に担ぎ込まれたが、午後7時45分、絶命した。
 翌日午後3時、警察は、「多喜二が心臓麻痺で急死した。警察に落ち度はない」と拷問の事実を隠蔽して発表した。だが受け取った遺体は一面、青黒く変色しており、拷問によるものと判別された。
 葬儀を済ませた母のセキは、その遺骨を抱いて小樽に帰り、龍徳寺で百日法要を催した後、奥沢墓地にある小林家の墓に埋葬した。住職は「物学荘厳信士」の戒名を授けた。
 墓の側面には父の戒名も刻まれている。
 タキもその後、亡くなった。いま多喜二は、両親とともにここに眠る。
 旭展望台には小林多喜二文学碑が建っている。時代にあがない、命を落とした多喜二。その作品に、いま再び光が差し込んでいる。


















 
2020年2月10日


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