老楼快悔 第26話 「岸壁の母」と端野新治さん

老楼快悔 第26話 「岸壁の母」と端野新治さん


 昭和20(1945)年8月9日、ソ連軍は突如、国境線を突破して満州(現中国東北部)へなだれ込んだ。牡丹江の国境に近い麻刀石に駐屯していた教育部隊の兵士らは、武器も持たないまま、平地に掘った穴に、火薬を抱いて入り込み、迫り来るソ連軍の戦車群もろとも炸裂する自爆戦術を取った。
 この戦いで行方不明になったのが端野新治という若い見習士官で、後に歌謡曲「岸壁の母」で歌われた母が待ち焦がれる息子、その人である。
 満蒙開拓団の最期に迫る拙著『死の逃避行』(富士書苑)の取材のさなか、端野新治を救おうとしているグループと出会った。端野さんの同期生で札幌に住む新保清長さんら元関東軍石頭予備士官学校の学生たち。
 迫り来るソ連戦車群を目前にして、爆薬を抱いて、通過する敵戦車もろとも自爆するという決死の戦いである。その中に端野さんも含まれていたのだ。戦闘は熾烈を極め、襲撃された学生たちは散り散りになって逃げまどい、新保さんらは奇蹟的に生還を果たし、祖国の土を踏んだ。端野さんは足を撃たれ、溝に飛び込み行方不明となった。
 戦闘の時、ソ連軍がばらまいたという宣伝ビラを手渡された。帰国する時、靴の中に忍び込ませて身体検査をくぐり抜け、持ち帰ったものという。貴重な資料といえた。
 歳月が流れ、元開拓団の医師が中国の佳木斯(ジャムス)の病院に勤務中、レントゲン技師をしている端野さんを見たという情報が入った。これを聞いた札幌在住の新保さんら同期仲間が「行方不明の端野を探そう」と動きだし、親友2人が代表して中国まで行き、写真を配って探した。だが、見つからなかった。
「岸壁の母」の端野いせさんを東京の大森に訪ねた。古びた格子戸のある玄関に「端野新治」の表札が見えた。だが不在らしく反応がない。そういえば2年前、マスコミの取材に疲れ果て、すっかり人間嫌いになり、自殺を図ったとも聞いた。そっとしておくべきかもしれないと思い、身を引いた。
 新治さんの生存説が何度か流れた。だが、判然としなかった。やがて、端野さんを夢中になって探していた戦友たちは、すべて亡くなった。「岸壁の母」の悲痛な歌声を聞くたびに、重い荷物を背負ったまま亡くなっていった人々の無念さを思う。








 
2019年7月19日


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