老楼快悔 第22話 榎本武揚と曾孫の隆充さん

老楼快悔 第22話 榎本武揚と曾孫の隆充さん


 碧血碑――。箱館戦争で戦死した旧幕府軍兵士の霊を祭る碑で、函館市の函館山麓に立っている。この碑前で毎年6月25日、「碧血祭」が催され、土方歳三、中島三郎助ら戦死者の末裔も含めて百人ほどが列席する。
 毎年、決まって顔を出すのが榎本武揚の曾孫の榎本隆充さん。武揚はこの戦いで死んではいないが、多くの部下を亡くした。先祖の忸怩たる思いを、わが身に重ねようとしているのかもしれない。
 榎本隆充さんを知ったのは東京で開かれた咸臨丸子孫の会総会の席上だから、もう20年近くも前になる。年齢が近いせいか打ち解けた間柄になり、何度か自宅を訪れて、榎本武揚の「獄中日記」や家族宛ての便りなどに接する幸運に恵まれた。
 古文書類を調べて『古文書にみる榎本武揚――思想と生涯』(藤原書店)を出してからも、折りにつけお会いするが、話をしていて、ふっと、榎本と重なることがある。
 先日、旧相馬邸で催された講演会では、隆充さんと対談させていただいたが、この折、榎本が黒田清隆に救われ、開拓使に登用された時の心境をこう述べた。
「先祖が残した文書の中に、君恩に未だ報いず、とあり、その文字の脇に、ルビのように、国益或いは国為、と書かれているのです。徳川も国家なら、新しい天皇による国家もまた国家。だから余命を国家に尽くそう、と考えたのではないでしょうか」
 主家を守るため武士道を貫き通した挙げ句、生き延びて、二君にまみえることを求められた榎本。その時の心情を語る隆充さんの話ぶりまでが、榎本の言葉のように聞こえてきて、胸突かれた。
 武揚が亡くなったのは明治41(1908)年10月26日。葬儀は海軍葬により行われた。読売新聞は「会葬者は総数八千人、……沿道の群衆は人山を築き、江戸ッ子として知られたる故子爵だけに、二階と云はず屋根と云はず職人体の男が打囁ながら葬列を眺め、中には手拭を絞り居たる者もあり」として、江戸っ子たちの人気の高さを報じた。
 榎本は根っからの江戸っ子でべらんめぇ調。オランダ留学でハーグの街に起居していた時、物を買おうとして、その価格の高さに「もっとまからねぇか」と言ったら、店員が驚いて「マカロニ」を持ってきたといおうエピソードを思い出しながら、隆充さんなら、こんな時、どんな反応するだろうと、その横顔を見ていた。





 
2019年6月7日


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