老楼快悔 第8話『「年賀状」と坂本直行さん』

老楼快悔 第8話『「年賀状」と坂本直行さん』


 元旦になると思い出す人がいる。いまは亡き坂本直行さん。山岳画家として著名人で、本名のなおゆきと呼ばず、チョッコウさんで通った。
 元日にどさっと届く年賀状の束。その中に必ず直行さんからの年賀状が入っていた。表面に住所と氏名。裏面に彩色したその年の干支が描かれていた。年賀状は転々とする私の転勤先に、毎年届き、それは直行さんが亡くなるまで続いた。
 直行さんとの出会いはいまから55年前、私が北海道新聞広尾支局に赴任した直後。着任挨拶回りで大樹町の町長を訪ねた時、町長が「ぜひ合わせたい人がいる」といい、車で広尾町豊似の直行さん宅を訪れたのだった。
 そこで西郷隆盛や勝海舟の書を見せられ、初めて坂本龍馬の本家筋の人物と知った。夢中になってカメラのシャッターを切っていたら、直行さんが「写真を撮るのはいいが、新聞には出すな」と言った。少しむっとなったが、町長の取りなしで宴会になった。そのうち直行さんは、小声で「龍馬は龍馬、俺は俺だ」と吐露した。
 歴史上の人物の末裔だけが抱く苦悩を、その時初めて察知した。以来、付き合いは深まり、毎年、私の勤務地に届いた年賀状が20枚ほどになり、私の密やかな宝物になった。
 北海道龍馬会が設立されたのを機に『龍馬、蝦夷地を開きたく』(寿郎社)を発刊し、その縁で直行さんの令息、登さんと出会えた。  平成30年晩秋、北海道坂本龍馬記念館(函館)に招かれて「第15回龍馬祭」に出席し、こんどは現在の坂本本家当主の匡弘さんに初めてお会いした。これで直行、登、匡弘と坂本家3代を知ることになった。匡弘さんに生前の祖父直行さんの話をすると、「子どもの時に会っただけで、恐ろしい感じだったのを覚えています」と述べ、心から驚いていた。
 不躾と知りながら匡弘さんに「お父さんとは仲がいいですか」と質問した。彼は「えっ」と不審そうな表情をしてから「いいですよ」と答えた。
 実は、直行さんは父親が嫌いだった。入婿だった父親は、それゆえにか家系を大事にした。それが若い直行さんには腹立たしかったのだ。登さんも父親の直行さんに反抗していた。「農民に学業はいらない」と言われ、大学に行けなかったのを怨んでいるのだ。でも匡弘さんには、父親へのこだわりはないと知った。
 その応答に安堵しながらも、坂本家に流れる“イゴッソウの血”が、どんな形で継承されていくのかと、直行先生の面影を偲びつつ、考えていた。


 
2019年1月15日


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